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退役 GOODBY LIEUTENANT


 外出から戻ると女房が、なにか来ているわよ、と言う。ダイニングテーブルにぼく宛ての郵便が置いてあった。きのう来ていたみたいよ、と女房は付け加えた。消印は都内で9月6日だ。封筒の裏を見ると差出人は谷川翔平となっている。幹部候補生学校の同期で自衛隊を辞めた翌年だったと思う一度会ったことがあった。谷川翔平が40年ぶりにぼくの人生に再登場か、しかし手紙とはいったいなにごとか、と思い中を見ると入っていたのは70会の解散パーティーの案内だった。70会というのは航空自衛隊幹部候補生学校第70期生(防大卒と一般大卒)の同期会で谷川君は役員のひとりだった。実はぼくはこの会の存在を知らなかった。解散の案内が来てはじめて知るとはいかにもぼくらしい。会のサイトにはアクセスせず谷川君へメールを送って出席しないと伝えた。会に直接では愛想無いと思った。電話でも良かったがメールならついでにいろいろ書けた。その日のうちに返信があって自らの近況などをつづった最後に、気が変わったら連絡してください、と書いてあった。優しいことを言う。ぼくにしてもみんなに会いたい気持ちがないではない。でも懐かしい顔を見ればきっと心が裂けてしまう。ぼくは幹部候補生だった45年前で時間を止めておきたかった。


 ぼくが自衛隊を辞めたのは年末年始の帰省中に自分がやるべきことを知ったからだった。休暇から戻って直ぐ小隊長に退職したいと申し出た。小隊長は飛行隊に配属になったときの人から交代していた。防大研究科を修了して秋の人事で来た幹候が2期上の防大出の2尉でルンルンといった軽い感じの人だったから気安くなんでも話すことができた。小隊長はもったいないんじゃないかと言いながらも自分のところで一旦留めることなくただちに隊長に話してくれたが306飛行隊の隊長がぼくを呼ぶことはなく飛行群司令に呼ばれて退職の意志の確認を受けた。群司令はわかったと言っただけだった。そのあとすぐ整備補給群司令からの呼び出しが来た。君の同期はみんな小隊長になっている、君だけが小隊付のままだ、後輩の小隊長もいる、気分は良くないだろう、しかし辞めるのはあまりにもったいない、どうだろう、君が行きたいところに行かせよう、やりたいと思う小隊長をさせよう、考え直さないか、と群司令は言った。ぼくは修理隊から306飛行隊の整備小隊付へ異動になったときのことを思い出していた。先任空曹が、隊長に虎本3尉をエンジンの小隊長にすればいいじゃないですかと言ったらオレには考えがあるんだと言っていましたよ、と言ったあと、隊長は虎本3尉を整備幹部として育てたいようですね、と付け加えた。梅津2尉は、オレは隊長に虎本をエンジン小隊長にするべきだと言ったんだけど、どうしてなんだ、と納得いかないという顔で憤慨していた。ぼくはそのときはよくわからなかったこのふたりの言葉の意味が群司令の言葉で解かった気がした。

 ぼくは修理隊にいたころ次は飛行隊へ行きたいと隊長に言っていた。初級の航空機整備幹部は飛行隊、検査隊、修理隊に配置される。修理隊の整備員はエンジン、電気、計器、自動操縦、油圧、機体修理、救命装備といった専門に分かれていたが飛行隊と検査隊の整備員はAPG(Air Plane General)と呼ばれ修理隊が担当しない機体全般を整備しパイロットを直接支援した。ぼくはまだ知らないAPGを見てみたかったがどうせなら飛行隊へ行きたいと思った。前向きなようで今思えばそれはむしろこどもがまだ持っていないおもちゃを欲しがるような気分だった気がする。6空団へ来て2年になるんだ次の人事異動では団の外に出ることになるのだろうなと思っていたら3月の異動で同じ6空団の306飛行隊の整備小隊付になった。飛行隊へという希望が叶ったのになぜかあまり嬉しくなかった。小隊付だったからではない。まだ3等空尉だから飛行隊の整備小隊ならそれは普通のことだった。ただなんとなく嫌な予感がしたのだった。306飛行隊は悪いところではなかった。隊長は航空学生出身でパイロットに厳しかったが整備には無関心で格納庫に顔を出すことはなかったからぼくが隊長と話すことはほとんどなくもっぱら飛行班長と話した。訓練で飛ばす機数の調整や故障機の修理状況などを話したが飛行班長との関係は良かった。ぼくは普通なら整備幹部はやることのない列線で整備員がする仕事を覚えて人手が足りないときは訓練を終えて戻って来た機体を取ることもあった。機体を駐機位置へ誘導しヘッドセットを着けて前席の操縦士と交信しながらラダー、エルロンといった動翼の作動確認などをするのだがそれは結構おもしろかった。なにかで困ったり悩んだりすることもなかった。はじめに感じたあの嫌な予感がなんだったのか強いて言えば306飛行隊が最後の勤務部隊となったことか。

 君がやりたい小隊長にしてやると言う整備補給群司令にぼくは、わたしが辞めるのはそういうことではありません一身上の都合です、と答えた。群司令はそれ以上なにかを言うことはなかった。あのとき306の整備小隊付にしたのは整備幹部としての君の将来を考えてのことだったと嘘でも整備補給群司令が言っていれば心は揺らいでいたかもしれない。ぼくは心のどこかに自衛隊への未練がまだ残っているとずっと感じていたが群司令の言葉がそれを吹き飛ばしてくれた。最後に団司令が直接ぼくの退職の意志を確認したがそれは10秒で終わった。3月11日付で退職と決まったのは2月に入って間もなくだったと思うがよく憶えていない。


 2月のある日、藤根さんが電話してきた。ぼくが修理隊に配属になったときの総括班長兼整備小隊長だった人でぼくが浜松のBMO航空機整備幹部基礎課程から戻ったときには他部隊へ転出していたから一緒にいたのはわずか一ヶ月ほどだったのに覚えていてくれた。

辞めると聞いた、驚いたよ、まああなたならどこでなにをしてもちゃんとやるだろうから心配しないけど。
その節はお世話になりました、ありがとうございました。
じゃあ元気でな。
藤根さんもお元気で。

嬉しかったから明るい声で話したが電話のあと急に寂しくなってだれもいないロッカールームへ行って泣いた。


 最後の日は朝からよく晴れてポカポカするほどの陽気だった。朝礼があってみんなの前で挨拶をしたがなにを言ったのかよく憶えていない。私服に着替えて貸与期限内の被服を返納しいよいよ基地を出るというとき、退職する幹部がこれから衛門を出るという放送が頼みもしないのに基地内に流れた。手の空いている者は見送りに出ろというのだ。そういう習慣があることを忘れていた。御免被りたかったがもう間に合わない。見送ってくれた20人ほどの隊員のなかに知っている顔はひとつもなかった。さようなら 虎本2尉。 2025年9月14日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)


部内部外
 ぼくは第70期の部外(一般大卒)幹部候補生でしたが第144期の新隊員でもありました。ぼくのような自衛隊経験者は部内部外と呼ばれていましたが扱いは純粋の部外と違いはなかったようです。もしぼくが部内選抜の幹部候補生だったら幹候校の期は言わず新隊員の期を名乗っていたでしょう。防大卒一般大卒にとって幹候校の期は重要でも部内選抜の者には幹候校の期などほとんどなんの意味もありませんでした。部内部外のほかの連中のことは知らずぼくは自分は新隊員第144期だという気分が強かったように思います。 2025年9月16日 虎本伸一(メキラ・シンエモン)


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